March 2011

March 28, 2011

充電中

こんばんは。

先日のエントリーを書いたあとから体調が悪く風邪をひいてしまいました。

今年に入ってもう2度目。

気を抜くと風邪の年になりそうです・・・。

体調不良の中読んだ、例の積読の中の一冊を紹介します。

その作品がこれ↓






その名にちなんで (新潮文庫)
その名にちなんで (新潮文庫)
著者:ジュンパ ラヒリ
新潮社(2007-10)













作者はジュンパ・ラヒリ。

『停電の夜に』でピュリッツァー賞を獲得した作家です。

天は二物を与えずといいますが、この方は与えられてしまっています。

賞を取るほどの凄腕、そしてモデルのようなその美貌。

神様不公平だよ!って言いたくなるくらいすごいです。

さてさて、恒例のネタばれと行きます。

話があちこちに飛ぶので、ついてきてくださいw

まず、一言。すっごい面白い作品です!

論文に使う作品を今になって変えてしまいたいと思ってしまうくらいです。

インド系2世の主人公ゴーゴリのアイデンティティにまつわるお話。

初めの方にゴーゴリの父親のストーリーがあるのですが、その父親、列車事故で瀕死の重傷に陥る。

血みどろの惨劇の描写なのですが、先日あった地震の惨劇と重なってしまいました。

ゴーゴリの父はその惨劇の場からすぐにでも逃げだしたい。

という衝動に駆られ、そしてアメリカに渡る。

こんな描写があります:

アショケ(ゴーゴリの父)の心には「生まれた土地から、あやうく死にかけた国から、出来るだけ遠くへ行くことを考えた」と。

今ニュースでは震災にあっても地元から離れたくない。と答える被災者が多いように思われます。

どちらの感情もわかります。

自分の根ざした土地から離れたくないという感情。

死に直面して生じるトラウマ。

個人的には逃げ出したくなります。

というのは、被災して命以外全てを失った時、金銭的に移動する余裕も無いというのが実情でしょう。

しかし、心に刻み込まれた無意識の中の恐怖はなかなか抜ける事は無いと思われます。

だから余震でびくびくするのです。

それなら少しでも遠くに離れたい。

アショケもそうなのでしょう。

精神が弱いからではなく、その精神を圧倒的な力で押し潰す程の出来事なのだから。

どこに根差すかという問題はこういったところからも見えてきます。

ところで、ゴーゴリという主人公ですが、ゴーゴリとは通称名で本名はニキル。

ベンガル人は殆どが通称名と正式を持っているとされています。

しかも祖母が正式決める事になっていて、通称名は家族・親類の身で使うと。

しかしこの主人公、5つになるまで本名が無かった。

おばあちゃんの付けた名前を両親も含め知ることができなかった。

それで、ゴーゴリで通してきた。

ところが幼稚園に行く時期になって正式名を決めなくてはいけなくなった。

としてつけられたのが「ニキル」

当人からすれば突然つけられた名前。

理解ができないんですね。

突然もう一人の自分ができる。

しかも五年も遅れて。

その時は拒絶するのですが、18になって大学に進学する際にゴーゴリからニキルに正式名を登録します。

結局ニキルという名前は18年のブランクを持ってゴーゴリにくっついてくるわけです。

18歳のゴーゴリと生まれたばかりのニキル、これが同一人物を指し示すことになる。

ニックネームなら名前や名字に関係して付けられることがしばしばあるので、何とでもないでしょうが、名前です。

しかも、新しく付けられた方が正式。

タカシと呼ばれてきた人が18年後に突然アキラになる感じです。

過去を切り捨てて、新たに生まれ変わる象徴とも言えそうです。

しかし、人間一個体として考えれば時間は連続な物で、名前を変えてもそれまでの時間とは切り離せるわけでもない。

個人の意識としては違うのでしょうね、きっと。

同一の時間の流れの中で生まれるもう一人の自分。

ゴーゴリtニキルどちらも自分であるに違いないが、どちらも他者であるに違いない。

ゴーゴリとしての自分とニキルとしての自分。

別々の側面を持ち合わせているとでも言えようか。

個人を定義する手段の名前を二つ持つということは、結果そういうことになるのだろう。

だから幼い時に親による決定は受け入れる事が出来ずじまいだった。

もし、名前がなければ、個人の特定はされない。

自分というものが何なのかさえわからずに終わってしまうのであろう。

それだけ、生まれた時につけられ、一生共にする名前というものは大きな意味をなし、数多いる人間の一人一人を正確に区別し、そこに人間として個人としての意味を持たせる。

名前とはそれだけ人間に強い影響力を持つ言葉なのだ。

ところで、ゴーゴリの実家はボストンなのだが、この描写が面白い。

アショケが博士号を取り大学で教鞭をとるようになった時、「ここまできたか」という場面がある。

この描写で一気にアメリカに住んでいた頃のことを思い出した。

わかるなぁ、その気持ち。

他にもカーキのパンツ、キャメル色のジャケット、水色のシャツに、臙脂のレップタイを身につけて出かける様が描かれたりしている。

アイビーだなぁ、プレップだなぁ。

なんて楽しめたりもします。

この作品、お勧めです♪



March 25, 2011

あれから2週間

お晩です。

地震による停電、放射線汚染、余震、食品不足、ガソリン買い溜め等々の混乱が続いていますね。

ガソリン、2週間たってもまだ続くか!?って感じです。

でも、今欲してる人は、これまでずっと我慢していた人達でしょう。

そしてその次は水。

一体どうなってるのでしょうか・・・。

一方で、避難所では命辛々逃げたのに衰弱して亡くなっている方が増えてきている状況です。

先週の地震直後、愚かな人間が寄ってたかって欲望むき出しに争った結果が今の状況を生んだのです。

まさしく人災。 悲しい事実です。

明るい話題をと思っていたのですが、停電やらでカフェ等もあまり開いていなく、ここに紹介できるネタが手元にない状況です。

今月初めに購入した本たちも、このゴタゴタで積読状態。

2週間。

完全なる自由人とは違う故、この身を使ってということが出来ない環境下なので、金や物が全てじゃないですけれども、義援金と物資で済まさせていただきました。

多くの人が、やりたい事をやれずじまいで生涯をとじた中、今こうして我が道を行く、行こうとしていることが本当に申し訳ないのですが、今夜あたりから積読達をやっつけ始めます。

この行為が、いつかきちんと意味をなすことを思い描きながら。

こんな時、ついこの前で会社員だった私は、会社員は楽だなぁと思っています。

出勤してメールのやり取りして、会議でて、なんてどんなに通勤が窮屈でも、ルーティーンなのだから。

いやでも組織の力によってやらされる。駒というと聞こえは悪いかもしれませんが、所詮平社員はそういう立場です。

「避難所で何人亡くなった」というニュースに対して、仕事中に深く真剣に考えている暇などないですからね。

そんなことしていたら、このご時世首ですわ。

そんな環境とは真逆で、物事に対して色々と思いをめぐらせ考える環境にいる今、自分の領域を超えてもその姿勢が少なからず出てしまいます。

それは現実社会の方がより自分に近いからでしょう。

そこで起きていることだから。

そして苦しくなる。

そうすると、なかなか自分の領域に戻れなくなったりもする。

戻って良いのかと?

今ここで、このことについて考える事を止めていいのかと?

堂々巡りです。

なのでいったん今夜からこの巡りを切ることにしました。

戻ります、己の領域へ。

これまで停電のエントリーなどでも作品を紹介しました。

これから増えると思われます。

わかりません、読み切ればですが。

ですが、読んで考える価値のある作品を紹介します。

人間の存在、その尊厳を多くの人に考えていただくためにも。



追伸: もちろんオーダーや料理に関する事も随時載せていきます。


keisdiary at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)読書 

March 23, 2011

停電の過ごし方 パート2

こんばんは。

今日も午後停電がありましたね。

4時から7時だったので、ちょうど夕飯の時間とかぶっており、今夜は出来あいで済ませてしました。

停電が始まっても、日が沈むまでは暫く時間があったので読書をしていました。

読んでいたのは『ガラスの動物園』です。

テネシーウィリアムズによる作品です。



ガラスの動物園 (新潮文庫)
ガラスの動物園 (新潮文庫)
著者:テネシー ウィリアムズ
新潮社(1988-03)











内容としては、足が悪く、引っ込み思案な娘のボーイフレンド兼結婚相手を見つけようと母親が画策し、息子の友達を紹介させる。

結局息子の友達にはイイ人がいて、お付き合いにはならない。

そのショックにより娘はより引きこもりのような状態になってしまう。

娘を想った母親の愛情が、空回りしてしまうというお話。

お話といっても、演劇です。

とあらすじ書いてしまいましたw

テネシーウィリアムズは『欲望という名の電車』や『熱いトタン屋根の猫』でピュリッツァー賞を受賞した劇作家。

ユージーン・オニールやアーサー・ミラーと並んでアメリカ演劇を代表する人物。

この作品を読むと、愛情って時には意図しない負のベクトルを持ってしまうのだなぁと感じます。

それとも突然負の要素をはらむのではなくて、愛情とは初めから負の要素をはらんでいるのか。

どちらだろうか?

この母親のように何かを画策するとしたら、準備が不十分だったという結果がこれなのか?

愛情に初めから負の要素がはらむとしたら、過度の愛情が重く感じられそれを自ら遠ざけてしまった結果となるのだろうか。

おそらくこの作日品においては前者が有力だろう。

しかし、娘の事を想う行為に負の要素は無いはず。

これが用意周到であったとしたら、そちらの方が作られた愛情のような印象を受ける。

突き詰めていくと個人の尊厳というものがあり、個人の判断となる。

しかしその結論はあまりにも乱暴だと思われる。

表に出てこない感情を分かち合い、その上での協力というのが一番妥当であるのは当然だろう。

こんなに丸く収まってしまっていいのだろうか?

なんてことを停電の暗い中考えていました。

もう少し考えてみるとするか。

あ、結局昨日の生地は見に行けませんでしたw

人間が活動するのに良い時間帯がちょうど停電だったので。




予定・紺ブレ

こんばんは。

あまりにも引きこもってばかりでも良くないと思い、用事を済ませた後にガスをちょっと使ってフラフラしてまいりました。

といっても、メインはカフェ読書。

でも、睡魔に負けそうになってしまったので、フラフラと生地を見に行ってきました。

四月から新生活なのに、こんなことしていて良いのでしょうか?

色々といいなぁと思う生地はあったのですが、目に入ってきたのはHardy Amiesの生地。S/Sの割にしっかりしていて英国らしいなぁと思いました。

でも、F/Wの方が良かった気がします。H. Amiesは意外と質にばらつきがあるので・・・

といっても、ここの生地自体3種類しか見られなかったので、なんとも評価しがたいのですが・・・。バンチであればなぁ。

噂で葛利のドミンクスがコストパフォーマンスが良いと聞きました。

S100かオールディーズ。それほど高くも無いらしい。

現物を見たことないので、見てみたいです。

明日あたり、手に入るか聞いてみようかな。

見て判断しないことには何とも言えないですし。

麻布でバンチだけ見せてもらうってものありですが、今は電車が・・・。

動いたり、動かなかったり・・・しっかりしろよ!東武!って感じです。


本来であれば、カノニコあたりを
大賀さんで考えていたのですが、自社工場の一つが震災でやられてしまったようで新規オーダーは今は待ってもらっているとのこと。

確か葛利も持っていた気がします。

ま、これからずっと頼めないわけじゃないし、もともと急ぎでもなかったので今は我慢です。

ほんとうに、一日でも早く再開できるように祈っています。

会社の中では銀座よりも成績はかなり良かったようですから。

最終的には今年のF/Wで頼めればOKです♪

生地を見てしまうと、欲しくなりますねw

ただ、デザインに困ってしまいます。

サックのブレザーはあるし、サックにあえてダーツを入れたのもあるとなると、ダブル4Bか段返り3Bでサイドベントかなぁと。

なんて妄想をしております。

さて、短い論文一本読んでから寝ますか。

最近よく眠れないのはこれのせいでしょうかね。

何とかリズム作りなおそ。



March 21, 2011

CeremonyとFahrenheit 451

こんにちは。

地震後引きこもってばかりの私です。

地元じゃガソリン買占めする倫理の欠片も無い輩がごまんといて、道は大渋滞。

入れるにも2時間、3時間待ちなんてのは普通。10リットル制限などを行っていて、それ以上でも以下でもないように均一に別けていたらタンクからあふれだす車続出。

そんな馬鹿な!?なんてお思いでしょうが、事実です。
マナーレベルの低い人が集まる上州に住んでおりますので・・・。

そんなこんなで、ガスがもったいない為、ひっきーに。



引きこもって読んでいたのはシルコーのCeremony・『儀式』とブラッドベリーのFahrenheit 451・『華氏451』



残念ながら、『儀式』の方はいまいちよくわからないです。

わからないという書き方も変ですね。

読んでいる最中に地震等のゴタゴタで再開したと思ったら中断、そしてまだ再開、また中断、などと繰り返して話のインパクトが薄れてしまい、何を書いたらいいのか・・・。

主人公(アメリカインディアンとの混血)が自らのアイデンティティについて彷徨うお話。

アメリカインディアンの思想はどことなく日本の神道に近いところがあって身近に感じる部分もあると思います。

インディアンは全てのものに精霊が宿るとしています。八百万の神と同じでようなものですね。




儀式 (講談社文芸文庫)
儀式 (講談社文芸文庫)
著者:レスリー・M. シルコウ
講談社(1998-01)















ついで『華氏451』の方は。

SFです。書物が禁止され、見つけ次第焼却処分される世界。

情報はテレビ等の電気媒体。

もう十年近く前に読んで、再度引っ張り出してきて読んでいる途中ですが色々と考えることが多い作品です。

まず書物の存在の否定。

なんといってもこれが一番のテーマです。

トフルのライティングの試験のようなお題ですねw

「知識を得るには紙が良いか、電子が良いか?」みたいな。

私は紙が良いのかなと思います。

テレビ等はその時点で必要な情報、ニュースとかなら手に入りますが、人間が生きる上で本当に必要な知識や知恵は古典からではないと学べないと思います。

ソローも言ってますね、新聞なんかじゃなくて古典を読めと。

古典は普遍的な物を後世に伝える。だから古典として残っているのですから。

その紙を消去することは、絶えず情報に振り回される人間社会になるのだと思います。

現実の世界以上に価値観が多様化し、安定しない社会になると言えるでしょう。


もう1つ、書物が無くなっても良いように、暗記する世界が最後に描かれているのですが、「語継ぎ」の重要性を描いていると思います。

口承文学の始まり。知識・知恵を後世に残す最終的手段ともいえる。

単なるエンタメのSFでないところが、この作品が評価される点でしょう。



華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)
著者:レイ ブラッドベリ
早川書房(2008-11)














どちらも翻訳があるので、是非♪