February 2013

February 03, 2013

番外編

「ぶれないとは何か?」

こう聞いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。

カメラの手ぶれ防止?

方針?

生き方?

人それぞれいろいろな連想をすることでしょう。

今日はそんな他愛もないことを書いてみます。

ぶれない。

ここでは生き方に対してのぶれないということにします。

さて、ぶれない生き方とは何でしょうか?

己の信念を貫く生き方。

という返事が返ってきそうです。

確かに信念を貫けばぶれないでしょう。

でも、ぶれないだけの知識と経験が備わっているのでしょうか?

別に若い人だけに限りません。

ある程度年齢いっているひとも、森羅万象がわかるわけでもない。

にもかかわらず、ぶれないで生きるとしたら、かたくなに他を切り捨てることになります。

そこから何が得られるのでしょう。

おそらくこの方法でぶれないようにした場合、人の進歩はそこで止まってしまう。

かじってから、切り捨て。

これならまだよいでしょう。

おいしいと思わないから、次は手を出さないと。

かつて、非常に頑固な女性に出会いました。

決して私のいうことを聞かず、自分の思うように行動し、耳を貸すのは決まった人のみ。

若気の至りとでもいうのでしょうかね。

これは信念でも、ぶれないでもない。

単なるわがままでしかない。

その人がどうなったかはわかりません。

多少わがままでなくなっていれば良いのですが。

話がそれましたが、ここで提案です。

あれこれ考えるから、ぶれるんです。

最終到達点を見据えてまい進すれば、決してぶれない。

自己中にみえるので、より詳しく。

たとえば、和食の料理人になりたい。

そのために何をするか?

修行ですね。

でも、和食だけでいいのか?

否。味の広がりを知るためには和だけではダメでしょう。

では、料理だけでいいのか?

否。器のの知識も必要でしょう。

では、料理に関することだけでいいのか?

否。世間の流行への知識といったものも必要でしょう。

料理を出す相手は人ですから。

そう、何をするにでも、到達点はある。

でもそこに行きつくためには、世の森羅万象をできる限り取り入れていく必要がある。

これはぶれではない。

長々と書いてきました。

なぜこんなことを書くか。

ひとつは自分のためです。

二つ目は、特にありませんw

単純に世の中のバランス感覚が崩壊していると思ったからです。

ありとあらゆることが極端にぶれすぎです。

何と言わなくてもわかるはずです。

人としてきちんとこの世の中を見ていれば。

目指すところを設定しておけば、自然とぶれは少なくなるでしょう。

両極を手にしたとき真中が見えるはず。

それができるように、まずは到達点の設定ですね。




keisdiary at 02:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)